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- 人吉別院の歴史
長きに亘る念仏禁制や弾圧が終わり
浄土真宗解禁第一号がここ
「本願寺人吉別院」
鎌倉時代から明治時代まで、肥後国球磨地方を統治した相良藩は、代々にわたり真宗の教えを禁じた。相良藩による念仏禁制(浄土真宗禁制)は360有余年もの間続けられた。明治に入りようやく解禁となり、その浄土真宗解禁第一号のお寺がここ「本願寺人吉別院」です。
この相良氏が居城としたのが人吉城で、球磨川の対岸、現在別院がある人吉市七日町はその城下にあたる。
球磨地方の開教は明治を待つまで許されず、この地の門徒たちは長い法難の時代を、密かに講を組織し、見張りを立てて聴聞にいそしむことで法義を護った。これは「隠れ念仏」と呼ばれ、相良氏に遅れて同じく真宗を禁じた島津氏の統治する隣藩、薩摩藩をはじめとし、南九州一帯にその苦難の歴史が残されている。
人吉別院は明治に開教を迎えてのち、待ち望んだ「信教の自由」を手に入れた人びとにより建立された。長い冬を乗り越え一斉に芽吹く春の萌木のごとく、この時期次々に起工された説教所を前身としている。
別院が、球磨における真宗開教の根本道場としてこの地に輝かしく創建をみるまでの土壌には、不遇の時期にも信仰を護り通した念仏者たちの不屈の思いが、太く脈々と流れている。
かくれ念仏と殉教者
「山田村の伝助さん」
当時、念仏禁制は人間の心の自由を奪うという暴挙でした。厳重な取り締まりの中で、命をかけてお念仏を護り伝えられたのが伝助さんと御同行の「仏飯講」でした。仏飯講は、もちろんお念仏を喜び、讃嘆し合う同朋でありましたが、厳戒の中で心の自由と真の拠り所を護り抜くという、「地下組織」「秘密結社」のような命がけのつながり(共同体)であったのです。この「仏飯講」の組織者が山田村の伝助さんでした。
仏飯講は次第に藩の政治的な領域や封建制度をとび越えてヨコへヨコへと無限に広がっていったのです。藩主(為政者)ではなく、阿弥陀如来を中心とするこの共同体は相良藩にとって都合の悪い存在でした。時には反乱の(一揆)の予備軍に映ったことでしょう。その上に、この共同体は血と汗の結晶であるご懇志を京都のご本山(本願寺)に進納していたのです。
本願寺人吉別院の
これまでの歩み
1555(天文24)年 2月 |
一向宗の禁制が出される。 |
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1872(明治5)年 | 明治維新を迎え、「信教の自由」が認められるが、相良藩の念仏禁制は続けられた。 |
1876(明治9)年 | 犬童庄兵為が説教所として自宅を開放する。 これが、人吉の説教所のはじまりとなる。 |
1877(明治10)年 4月 |
西南戦争の戦火により、説教所が焼失する。 |
1878(明治11)年 | 真宗禁制解禁第1号の浄土真宗寺院として、「本願寺人吉説教所」を建立。 |
1880(明治13)年 10月21日 |
内務省より許可があり、人吉説教所の創立が定められる。 |
1903(明治36)年 10月 |
京都の「浄教寺」を「高尊寺」と改称し、これを人吉説教所へ移して「人吉別院高尊寺」となる。 |
1904(明治37)年 10月21日 |
別格別院、光尊寺となる。 |
1910(明治43)年 | 人吉仏教会が発足。 |
1915(大正4)年 8月30日 |
人吉仏教日曜学校が開設。 |
1919(大正8)年 | 別格別院光尊寺を改め、「本願寺人吉別院」と改称。 |
1924(大正13)年 | 寺地拡大。 |
1927(昭和2)年 | 球磨真宗開教50年。 |
1929(昭和4)年 | 熊本県球磨郡真宗開教史が編集される。 |
1968(昭和43)年 | 納骨堂・事務所等の境内建物を新築する。 |
2015(平成27)年 | 750回大遠忌記念事業として、新たに納骨堂「高尊殿」を建立する。 |